TAEYANGインタビュー [スタータイムライン] テヤン 、人生の半分を費やした「トン・ヨンベの音楽」 (2014.6.17) (NAVER芸能) 日刊スポーツオム・ドンジン記者 2014年6月17日 09:59 (2014年6月17日、「NAVER芸能」サイトに掲載されたロングインタビューの和訳です。 数社の翻訳フィルタを使い、スマホ等でも読みやすくする為に原本とは違う箇所で改行したり、意訳の部分もあります、ご了承ください。) 空から急に振ってくるスターなどいない。 全世界が舞台であるK-POPスターなら、なおさらそうだ。 星(スター)になる為には最低で3〜4年は磨きあげて忍耐の時間を過ごす。 思春期に経験するトレーニングは例外なしに過酷だ。 この時期、数多くの練習生達が、厳しい汗と涙の苦痛に打ち勝つことができず空しく、夢半ばで折れていく。 BIGBANGのリードボーカルであるテヤン(26・本名トンヨンベ)も、この時期は過酷であった。 練習生として6年、2,190日、52,560時間をソウル市麻浦区合井洞にあるYGエンタティメントの旧社屋で自分自身と戦ってきた。 友達と一緒に遊ぶ時間も足りないくらいの小学校6年生の頃、自ら選択した道。 だからこそこれを「楽しい」と思うことにした。 なりふり構わず正直に6年間全てを満たした。 そして本気を尽くした努力は裏切ることはなかった。 2006年、BIGBANGのメンバーとしてデビューを果たし、今テヤンは最も高い場所で最も明るく浮かんでいる。 今週の「スター タイムライン」の主人公・テヤンの「タイムスリップ」場所は、テヤンが夢を育てた合井洞にある 旧社屋である。 2011年、YG 新社屋時代がスタートしたが、依然としてこの場所は練習生たちの「夢」を育てた場所として残っている。 最近、正規2集「RISE」を発表したテヤンも、旧社屋での「過ぎると柔らかな」経験が成長促進剤となった。 6月15日(日)、旧社屋を訪ずれたテヤンは、 あちこち見渡しながら 「ここもたくさん変わりました。でも 空気がじめじめしてるのは当時のままです。」 と、特別な感慨にひたっていた。 幼い頃に遊んだ路地裏にでも訪れたかのように、テヤンはすぐに12年前を振り返り、胸の中に大事にしていたその当時の話をすらすらと語りだした。 1. 13歳のテヤン、人生を変えた一言「歌手になりたい」 -歌手の夢を見たのはいつからですか? 幼い頃から音楽が好きでした。 でも 、内気な性格だから表では言えませんでした。 小学4年生の頃、演技の塾が流行っていました。 家の事情で親戚の家で過ごすようになったのですが、いとこ達が演技塾に通うので僕もついていくようになったんです。 そしてYGでKidsジヌションのオーディションを受けることになりました。 結局ジヌション兄貴達のMVにも出演するようになりました。 HIPHOPの音楽もそこで始めて聞いたのですが、その時『ここの練習生になりたい』と思うようになりました。" -ヤン・ヒョンソク 社長に直接言ったんですか? そうです。 ジヌション兄さん達との活動が終われば、僕はまた元の生活に戻らなければいけなかったんです。 でも、それが嫌だった。 社長に 「僕は歌手になりたいです。ここで練習をさせて下さい。」 と聞いてみました。 すると社長は「そうか、やってみようか」と言ってくれたんですよ。 幼い年齢なのに意思を見せた姿をよく思ってくれたみたいです。 -小学6年生でそれは 簡単な事ではなかったと思いますが。 4年生の時IMF(国際通貨基金)が破綻して、家庭環境が急に難しくなりました。 僕は幼かったのでそんな状況を理解できませんでした。 一方ではそんな生活が嫌で、早く上手な方法を見出して両親に苦労をさせないようにという思いがありました。 -社長を 初めて見た感じはどうでしたか? 「本当に大きい」、でした。 小学6年生までに見た人の中で、一番大きくて頑丈そうな人に出会った感じでした。 -両親はたくさん心配したでしょうに。 最初は心配してました。 でも「お前が望んでする事なんだから、何があっても親にすがるような考えは持たない事、学校の成績も良くないといけない。」と言いました。 -ジードラゴンと初めて出会ったのもその頃ですか。 ジヨンは当時 、アンダーグラウンドのHIPHOPシーンで活動していてYGにキャスティングされていました。 練習生になってから、2人が争うこともありましたが、便りにする人でもあり、お互いが全てでした。 一緒に練習する相手も僕らだけだったんです。 2人とも学校生活を普通に送れない状況だったから、少年時代の思い出はジヨンと作ってきたものが全てでした。 -競争意識もあったのでは。 当時のジヨンは会社が育てる練習生でありながら、アーティストでもあったんです。 僕は駆け出しで入ってきた練習生だった。 実際、目に見えない「差別なき差別」を、ジヨンよりはたくさん感じてきました。 だからもっとたくさん学ぼうと努力したし、競争意識も当然ありました。 2. トン・ヨンベの10代はクォン・ジヨンと送った宝石のような時間 -練習生としての生活はどうでしたか。 社会生活を始めた感じでした。 家と学校だけで生活していたある日、急に社会に放り出されてみたら、人との接し方もわからずに困難もたくさん感じました。 -たしかに大変だったでしょう。 そうだったんです。 特に家が議政府にあったので、移動距離も時間も長かった。 午後4時に学校が終わったらバスに乗り、弘大に向かいます。 夕方6時に到着して練習をし、夜11時なると終電に乗るために停留場まで走って行かなくちゃいけなかった。 議政府駅に到着すると夜中の1時になってて、そこから繁華街を抜けて30分かけて帰宅するんです。 それから学校の宿題をはじめて夜中の3時を過ぎた頃眠りにつきます。 一日のお小遣いが2000ウォンでしたが、交通費を除けばちょうど400ウォン余るくらいのキツキツだったんです。 -会社では何を教えて くれましたか。 今の練習生たちは良いシステムで組織的に管理されていますが、当時はダンサーや歌手である兄貴達の練習するのを肩越しに見学することが全てでした。 でも、その時は歌手になる以前に、人として学ぶべき事を 学ぶことができました。 例えば、会社に行ったらまず掃除から始めます。 今は室長になったホンピョ兄さんですが、当時はその風紀委員のような感じでした。 掃除をしたら検査を受け、ホコリでも出ようものなら怒られてもう一度だ、と。 -兄さんたちはよく教えてくれましたか? 言葉ひとつすら、かけにくかったです。 兄さん達は既にスターじゃないですか。 僕達にはそんなに優しくなかったです。 本当に 羨ましかったのは、1TYM兄さん達が第3集の活動をスタートした頃に、アメリカで衣装を購入して練習室の床に広げたら、広い練習室が衣装でいっぱいになるくらいだったんです。 ジヨンと「僕達も歌手になったらあんな服が着れるかな」と、そんな話をしたのを覚えています。 YG の中ではテディ兄貴が一番好きでした。 僕もテディ兄貴のようなラッパーになろう、とそう思っていました。 -一番大変だった時は? 今思えば笑って話せるけど、YGファミリーの2番目のアルバムが出た時の話です。 ジヨンはタイトル曲でもある「HIPHOP GENTLEMEN(おしゃれ紳士)」で兄貴達と活動をして、僕も運良く収録曲の録音に参加することができました。 その時 YGファミリーが 歌謡大賞で賞を受けることになり、自宅で母とテレビでその放送を見ていたんです。 ジヌションのショーン兄貴が代表で受賞コメントを言い、アルバムに参加した歌手の名前を全部口にしていました。 正直なところ僕は期待もしていませんでしたが、本当にボクの名前を呼ばれる事はありませんでした。 母は「お前はアルバムに参加したのに、どうして名前を呼ばれないんだ」と言うんです。 母には申し訳ない気持ちで、穴があったら入りたいくらいでした。 -ラッパーが夢だったのでしょうが今はボーカルが素晴らしいですよね。 ある日 社長が「まわりに音楽が上手な友達はいないか?」と 聞いてきましたが、TOPヒョンを紹介することになったんです。 社長はTOPヒョンに会うなり「歌を歌ってみてくれ」といいました。 TOPヒョンは当時、完全にラッパーでした。 あの頃は ヒップホップよりもR&Bが主流だったので、社長は誰に会っても歌を歌わせました。 TOPヒョンは戸惑いながらも歌った曲はR kellyの「I Believe I Can Fly」でした。 でも緊張したのか歌が詰まってしまったんです。 とても気まずい空気になりましたが、ボクはそのままTOPヒョンの歌を引き受けて歌ってみました。 それがきっかけでした。 社長がボクに「お前は歌がちょっとできるんだな、もっと練習してみろ」と言うんです。 最近もメンバーと「なんでよんべがボーカルになったんだろう」という話題が出たので、この話をしたらみんな笑ってました。 -当時、練習室以外で作った思い出はありませんか? ジヨンがイルサン(ソウル市の北西部)に引っ越して、 ラフェスタ(ショッピングモール)にたくさん行きました。 当時は 中高校生の間で、某オンライン・コミュニティにメッセージを送るのが流行ったんです。 どこどこの学校に”オルチャン(可愛いコ)”がいると噂があれば、ジヨンがメッセージを送り、会うようにしました。 一緒にご飯を食べて、カラオケにも行ったりして。 でもそんな風にして知り合った子のほとんどは「サジンパル(写真映りの良い子)」というのが落とし穴でしたね(笑)ww 普段できないようなフツーの事をジヨンがいれば練習室の外ではすることができました。 たまにジヨンとイルサンで遊んでた頃に戻りたいと思ったりします。 3. 23歳 テヤン、 危機に遭遇してまた他の機会を得る -BIGBANGはどのように作られたんですか? ジヨンと僕は2人組ユニットでデビューするんだと思ってました。 でも社長は、BOYSグループを作る計画だったんです。 最初はヒョンスン(現BEASTのメンバー)が入り、17歳の頃から3人で宿舎生活をしました。 ヒョンスンといながら、TOPヒョンとテソン、スンリが入ってきました。 今思えば当時ジヨンはBOYSグループが嫌だったんだと思います。 実際、TOPヒョンはよく知ってましたが、テソンとスンリは全くわからなかったし、友達としてのポジションもわからなかったんです。 友達としてどう接していけばいいのかな、と思ったりしてました。 でも練習をしながらお互いの気持ちが通じていくのがわかりました。 -BIGBANGは最初から良くは無かったんですね。 そうです。 東方神起のような「イケメン」グループがたくさんいました。 僕たちは背も大きくない、キレイに服を着こなすことも無かった。 「こんな子達が出てきたんだねぇ」程度の関心だったんです。 そこで、休むことなくシングルを発表しました。 1ヶ月に1度シングルを出し、準備期間には新聞社をまわりながらインタビューを受けました。 アルバムが出れば音楽番組の放送があるから、眠る時間もありませんでした。 -そうこうするうちに、「コジンマル」が嘘のように飛び出してきた。 もともと「コジンマル」はジヨンのソロ曲でした。 でも 社長が「この曲をBIGBANGでやればうまくいく」と言い出したんです。 僕達の追求する音楽はHIPHOPなのに、エレクトロニックな曲なので意外でした。 でも 結果的に良くなりました。 -そこからBIGBANGの全盛期が開かれたけですね。 一度注目を浴びると、「ハルハル」「マジマクインサ」「ブルグンノウル(赤い夕焼け)」まで4連続で ヒットが続きました。 その頃から歌謡祭の授賞式で大賞も受けたりしました。 ただ、それ以上でもそれ以下でもなかったんです。 一日も 休むこと事ができないくらい忙しかった。 祝賀パーティーなんていう考えすらおきなかった。 当時は「きちんとご飯を食べれるか」だけを考えてました。 さらに、韓国で成功したらすぐ日本に出向いて再び”下積み”から始めろ、というんです。 -BIGBANGにも紆余曲折があったんですね。 めまぐるしく何年もの間、仕事だけをしてきました。 仕事に追われながら、メンバー間にも見えない亀裂が生じることもありました。 とても困るし敏感にもなりますが、毎日顔を合わさなければいけない。 個人活動をすると「グループが無くても一人でうまくやっていける」、だなんて考えが生じてくる、という話も耳にしました、それがとても心配でした。 僕たちもこうして終わっていくのか、という考えがよぎりました。 当時、アイドルグループは5年を超えることは難しい、とよく言われました。 するとその頃から嘘のように良くない事が起き始めるんです。 メンバーたちがいろんな紆余曲折を経験するように なり、みんな大変な時間が続きました。 少なくとも僕は本当に胸が痛かった。 当事者ではなかったけど、僕に最も近い人たちがそんな経験をしたから。 崖の上に立った時、「このまま終わらせたくない、メンバー達と別れたくない」と思いました。 -その時の個人的な 欲心達はもうありませんか。 あの当時のことは、僕だけじゃなくてメンバーにも大きく影響しました。 ソロ活動はチームの為だ、とみんな言いますよね。 人間は自分が一番です。 でも僕たちは違う。 そのことを経験しながら「チームがなければ僕たちができる仕事もできない」 と言うことがわかるようになりました。 -脱線した事はなかったんですか。 大変な脱走計画をしたことがあります。 未成年者だったスンリを除いて、4人で ビールの広告を撮影したのですが、撮影が終わったらテソンが車を運転し、遠く離れた場所に1週間隠れよう、と企んだんです。 クレジットカードを使えばバレるから、現金をたくさん用意しようという計画までしていました。 広告を撮り終えて、宿舎に戻ったら逃げ出そうと計画していたのですが、マネージャーが宿舎ではなく事務所に到着させて僕たちを降ろしました。 社長から話があるから、と言うんです。 不安でしたが、やっぱり僕たちの計画を全部知っていました。 スンリが社長に「ヒョンたちが脱走しようとしてる」とバラしたんです。 その時 社長が暖かく「何が辛いんだ」と聞いてくれました。 脱走では無く、話をしなくちゃいけない、と感じました。 4. 21歳 テヤンの痛い初恋 -初恋はどうだったんでしょうか。 初恋の傷はとても大きいです。 デビュー前から好きで、デビュー後も会っていた人でした。 とても忙しくて告白することもできず、お互い好意をいだくだけの関係で数年が過ぎました。 僕はデビューという重要な仕事を控えていて、会うことすらできませんでした。 2ヶ月に1度くらいの割合で顔を見ることはできたんです。 その恋が僕に与えてくれた力は、計り知れないほどでした。 その人のおかげで「本当に最高にならなければいけない」と思うようになりました。 僕には仕事よりも、その人の存在はもっと大きいものでした。 だから、頻繁に会えなくても、待つことができた。 でも彼女はとてもつらかったようです。 しばらく連絡できなかったのですが、そのうち彼女に、別の男ができた事を知りました。 全てにおいて意味がなくなってしまったんです。 はじめて感じた空しさが押し寄せました。 音楽もただ仕事だ、と思うようになってしまいました。 この程度の愛すら成り立つことができない時、はたして何が本物の愛なんだ、と思ったりしました。 -今は恋愛を していますか? 多くはないけど、恋愛はしましたよ。 でも今はあまりにも忙しいので、会う時間も、機会すらもあまり無いんです。 -「感動を与える歌手になりたい。」と言っていましたよね。今は歌手になりましたが、別の夢はできましたか? 今も似ています。 まだまだ歌手になりたいです。 その時思った夢に完全に近づいたとは思ってないんです。 僕が描いた夢はマイケル・ ジャクソンみたいな感じでした。 数万人が集まるスタジアムの前で歌って、大衆に音楽的なインスピレーションを与えるような存在に。 まだ僕にはやらなくちゃいけないことがたくさんあります。 見せたいものがたくさん残っています。 -ワールド ツアーをまわりながら、メンバー達と面白い 思い出もできたのでは。 イギリスのロンドンで公演をしたとき、メンバー達とクラブに行きました。 そのクラブの中では、僕達だけがアジア人でした。 アジアの人間がカッコイイ服を着て遊ぶ姿を見て周囲は驚いたようです。 イギリス人が近づいてきて「これはどこの服ですか?」とブランドを聞いてきて、SNSの友人申請をして大騒ぎになりました。 当時、PSY兄さんの「江南スタイル」がとても流行っていて、僕達に「Do You Know PSY?」と聞いてきたんです。 僕達にそれはそれは親切にPSYについて説明してくるので、「一緒に音楽をしているうちの兄貴です」と教えてあげました。 -テヤンにとってYGとは。 青春なんだと思います。 僕はもう26歳なのに、YGで人生の半分以上を過ごしているんです。 これからそれ以上を過ごすことになるのでしょうが、今は会社がとても大きくなりました。 アーティスト達の色も多様化してきてます。 この旧社屋と一緒ですね。 さっき 初めてココに入ってきた時「あ、変わったなぁ」と思いました。 でも独特のジメジメしたこの匂いは変わらず残っています。 以前は、この地下室で全てが行われていました。 録音、練習、マネジメントまで・・・。 あの頃が一番、「YGファミリーらしかった」ように思います。 今はファミリーというには会社があまりにも大きくなりました。 今は「YGタウン」になったみたいです。 〜終〜 出典:http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=106&oid=420&aid=0000000995 (NAVER芸能 2014.6.17 09:59) |